晴れてた
めずらしく外出の予定が重なってた。午前中に飲料大手某社に挨拶&軽くプレゼンをして……地下鉄、たしか東西線のどこかの駅だったか……少し肌寒い海沿いのテラスで仕事仲間とかんたんに腹ごしらえをして、別れて渋谷に向かったんだったな。
昼過ぎ、次の打ち合わせまで少し時間があったので、道玄坂のファーストキッチンに入った。なーんか気だるいような、ゆるい春の日差しが店内に注いでいたような記憶がある。たぶんベーコンエッグバーガーとか食べた。
南平台で打ち合わせをしていた。某ケータイキャリアの仕事だった。ん?揺れてる?え、意外と大きい? とりあえず全員で会議室のテーブルの下に隠れた。大人たち5〜6人。その光景が、ちょっと滑稽に見えていた。そう感じていた自分を後で恥じる。
誰かが検索したんだったか、
「宮城沖みたいです」
と聞いた気がする。
そこそこの横揺れだったので、1階の打ち合わせコーナーの壁にもクラックのようなものが入ったようだった。揺れが収まったので打ち合わせを継続した。
が、すぐに知り合いのプロデューサーが
「全館避難です」
と伝えに来た。なんかおおごと感が伝わってきた。
「アラジイさんはどうします?」
と言うけど、よその会社の人といっしょに避難するのも照れるし、それより夕方から横浜で打ち合わせがあるんだ。
ということでそこでの打ち合わせは切り上げ、渋谷駅に向かおうとしたのだが。
「その前に一服しよう」
と、当時まだ喫煙者だったので、とりあえず駅に向かう前の小さな公園に寄ったら、近所の会社が一斉に避難していた。一服どころではなかった。それでも、灰皿やタバコ吸ってる人を探していたら、
「キャーッ!」
と避難してきたどこかのOLが抑えめな叫び声を上げていた。見ると、建築中のビルの上の重機が揺れていた。
狭い公園はザワついていたが、それでも落ち着いてる風を装っていた感じだった。いま思えば、それって「正常化バイアス」ってやつだな。
想像以上になんか起こってるのかもしれない。
でも、日本の鉄道は大丈夫でしょ。打ち合わせもあるし。
「とりあえず横浜に向かわなきゃだけど、さて」
と考えていた。まだ何もピンときていない。
たしか、この時点では、まだタクシーとかは拾える感じだったように思う。で、渋谷駅でなく原宿駅に向かった。
山手通りを北に向かい、富ヶ谷あたりを右に曲がって、代々木公園の脇を通って原宿駅へ。
途中、一緒に打ち合わせをするはずのAD(アートディレクター)に何度も電話をするも、まったくつながらない。渋谷駅も電車がストップしてるらしい、というのは、通りすがりの誰かが言っていたんだっけ。ってことは、打ち合わせをしてる場合じゃないってこと?と思いつつ…彼の事務所がある原宿に行こう、と考えたんだった。いちおう準備してたんでっせ、と言うために。
それでも、渋谷と原宿の間の道路は、その時点では大混乱ではなかったと思う。
そして、オレも、1週間ほど前の東北の揺れを思い出しながらも、
「まぁすぐ復旧するでしょ」
くらいに思ってた。なんたって日本の鉄道なんだから。それも天下のJR山手線だし。
ケータイからの電話は一切つながらず、家族には代々木公園の公衆電話に並んで安否を確認した。
で、原宿駅で電車の復旧を待った。
その間に、登録したけどあんまり使ってなかったツイッターを見てた。ツイッターはつながってたんだ。
デマとリツイートと
情報がほぼ閉ざされた中、いちばん「つながった」のはツイッターだった。それによると、
「千葉のコンビナートが爆発!」
とか、
「◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯!」
とか(忘れたけど)、さながら世紀末のようなツイートが横行していた。
それを多くの人がリツイートしてしまう……当時はいま以上に情報リテラシーが高くなかったから……ということが起こってしまってた。
この時点で、ようやく「なにかとんでもないことが起こっている」とわかった。
それでも、原宿駅で電車の再開を信じながら、これらのツイートを眺めていた。で、たぶん自分自身もデマツイートをリツイートしたりもしたんだと思う。
情報を入れれば入れるほど恐怖でしかなかった。
恐怖の感情ってデマの拡散につながりやすい。このコロナ禍もそうだ。震災を思い出すことで肝に銘じなければならないよね。
歩いた
日本の鉄道の復旧力を信じて原宿駅で2時間ほど待っていたけど、ツイッターを見る限り、どうやら動き出すのを待つのはムダだな…と思い至る。で、以前クルマで通っていた道を歩いて自宅を目指す。打ち合わせはさすがに諦めた。何度も電話したけど通じなかったから、オレのせいじゃない。
そのころすでに夕方の6時から7時だったかな。主要幹線道路には、民族大移動じゃないけど、驚くほど多くの歩行者がいた。
すでにタクシーとかは話にならない(くらい捕まらない状況)。
諦めたのか、客を受け入れている飲食店も散見された。環七沿い。
クルマで通っていた時代の裏道を歩く歩く。途中でセブンイレブンが開いていた。入ってみたら、食料はほとんど売りつくされていた。それでも、なにか飲むものを買えた気がする。コンビニ偉い。
一息つきつつ歩いていると、たまたま、ほんとうにたまたま、家の方向に向かうバスを見つけた。これは!と思って追っかけて乗り込む。通常より3〜5倍くらい時間はかかりつつも、家までがんばれば歩けるという、あと一歩のところまでどりついた。いや、これはほんとに幸運だったと思う。
絶句
たどり着いたJRの駅は、シャッターが下ろされ電気も消え、(見たことないけど)戒厳令のように物々しい雰囲気とタクシーの列。が、そこから自宅にたどり着けるバスが動いていて乗ることができた。奇跡? 急に日常に戻れた気分だったのを思い出す。
「はー!なんとかかんとか」
そのくらいの気持ちで、4時間くらいかかったが、なんとか帰宅。幸運なことに「本が落ちてきただけ」で被害はほぼなかったという。しかし、テレビから映し出される映像を見て絶句した。
ありえない光景の連続だった。
家が、街が、流されていく。
海の上に炎があがっている。
まじかよ…。
それ以上の言葉は出ない。
それでも、どういう心理だろう、これも正常化バイアスなのか、ありえない状況の中でも精神的にバランスを取ろうと人はするみたいだ。
繰り返し流されるACのCMを茶化した動画に救われた気もしていた。
※当時を思い出して苦しくなる人は視聴しないほうがいいかもです。
底の底まで沈んでしまいそうな気持ちをごまかしながら、ちょうど引っ越しの準備をしていたわが家は、大きなダンボールに服を詰めた。ネットで災害支援物資を受け入れる団体を見つけて送った。いま考えると、それは正規の受け入れ先だったのか、よくわからない。そんなことを考える余裕もなかった。
そして、翌日には福島の原発も爆発してしまう…。
石巻へ
1年後、取材で仙台へ行く用事があった。午後の比較的早い時間に終わったため、石巻まで足を伸ばすことにした。震災当時、知人が関わっていたこともあり、『石ノ森萬画館』がどういう状況だったのか聞いていたので、訪れてみたかった。
そのときのことは、こちらの本で細野不二彦さんがマンガにしている。
石ノ森萬画館は、その後、トヨタのCMで紹介された。覚えている人もいるだろう。入り口を取り囲んだベニア板に、日本全国から訪れた人たちのメッセージが書かれていた。ビートたけしが海に向かって「バカヤロー!」と叫んでいた。
オレが訪れたときは、街も片付いて、そのベニア板も取り除かれ、石ノ森萬画館も再オープンしていた。それでもエントランスの柱には津波の高さが表示されていて絶句した。
さらに1年後、地域の仲間たちと再び訪れた。更地に簡易な慰霊碑などはあったが、街はさらに復興が進んでいた。石巻駅前のラーメン屋に寄った。
「ここは何年ぐらいやられてるんですか?」
「半年くらいですよ」
「え、そうなんですか?(だいぶ年季も入ってるように見えるけど)」
「前の店主が津波で流されちゃってね」
それが現実だった。
あれから12年
被災地のことを見聞きするのは、メディアを通じてしかない。
嵐は『Arashi Blast! in Miyagi』を開催し、その経済効果を報じるニュースを観て頼もしく思った日も、けっこう昔のことになってしまった。
TOKIOのDASH村もこのあいだ汚染地域から解除されたのかな。
農産品は福島や宮城のものを選んで買うようにはしているよ。
処理水が放出されても、オレは福島の魚を食う。検査結果を信じているし、どっちにしろジジイだし。
福島の酒も美味しいんだよなー。あ、自分のルーツのある岩手の酒も忘れちゃいけない。震災で大打撃を被った陸前高田の「酔仙」も。もう浴びるように呑むわけにはいかない身体になってしまったけど、応援のために買おう。
そして、ちゃんと稼いで、東北にお金を落としに行こう。できればこの夏にでも。