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    あれから10年の翔ちゃんの覚悟

    ※翔ちゃんのニューズウィークの件にも触れますが、ほぼそれ以外の内容です。

    晴れてた

    めずらしく外出の予定が重なってた。午前中に飲料大手某社に挨拶&軽く企画のプレゼンをして……地下鉄、たしか東西線のどこかの駅だったか……少し肌寒くはあったけど、どピーカンだったので、海沿いのテラスで仕事仲間とかんたんに事後打ち合わせをして、別れて渋谷に向かったんだったな。

    昼過ぎ、次の打ち合わせまで少し時間があったので、道玄坂のファーストキッチンに入った。なーんか気だるいような、ゆるい春の日差しが店内に注いでいたような記憶がある。たぶんベーコンエッグバーガーとか食べた。

    いい日和だったんだ。その時までは。

    南平台で打ち合わせをしていた。某ケータイキャリアの仕事だった。ん?揺れてる?という話になり、とりあえず全員で机の下に隠れた。小学生みたいですね、とか軽口をたたきながら。

    誰かがケータイでニュースを見たんだったか、

    「宮城沖みたいです」

    と聞いた気がする。

    けっこうな幅のある横揺れだったので、1階の打ち合わせコーナーの壁にもクラックのようなものが入ったようだった。揺れが収まったので打ち合わせを継続した。

    が、すぐに知り合いのプロデューサーが硬い表情で

    「全館避難です」

    と伝えに来た。なんか大ごと感が伝わってきた。

    「アラジイさんはどうします?」

    と言うけど、よその会社の人といっしょに避難するのも照れるし、それより夕方から横浜で打ち合わせがあるんだ。

    ということでそこでの打ち合わせは切り上げ、渋谷駅に向かおうとしたのだが。

    「その前に一服しよう」

    と、当時まだ喫煙者だったので、のんきにも、とりあえず駅に向かう前の公園に寄ったら、近所の会社が一斉に避難していた。一服どころではなかった。それでも、灰皿やタバコ吸ってる人を探していたら、

    「キャーッ!」

    見ると、建築中のビルの上の大型重機が揺れていた。

    日本の鉄道は大丈夫だと

    そこで、何を考えたかというと、

    「とりあえず横浜に向かうために渋谷駅に急ごう」

    ということだった。まだことの重大さにピンときていない。

    たしか、この時点では、まだタクシーとかは拾える感じだったように思う。目で追って確認した記憶はある。で、タクシーには乗らず、徒歩で渋谷駅でなく原宿駅に向かった。

    途中、一緒に打ち合わせをするはずのAD(アートディレクター)に電話をするも、まったくつながらない。渋谷駅も電車がストップしてるらしい、というのは、通りすがりの誰かが言っていたんだっけ。ってことは、打ち合わせをしてる場合じゃないってこと?と思いつつ…彼の事務所がある原宿に行こう、と考えたんだった。打ち合わせに向かうのなら合流するために。でなければ、いちおう準備してたんでっせ、と言い訳するために。

    それでも、渋谷南平台から原宿の間の道路は、その時点では大混乱ではなかったと思う。

    そして、オレも、1週間ほど前の東北の揺れを思い出しながらも、

    「まぁすぐ復旧するでしょ」

    くらいに思ってた。なんたって日本の鉄道なんだから。それも天下のJR山手線だし。

    ケータイからの電話は一切つながらず、家族には代々木公園の公衆電話に並んで安否を確認した。

    で、原宿駅で電車の復旧を待った。

    その間に、登録したけどあんまり使ってなかったツイッターを見てた。ツイッターはつながってたんだ。

    デマとリツイートと

    情報がほぼ閉ざされた中、いちばん「つながった」のはツイッターだった。それによると、

    「千葉のコンビナートが爆発!」

    とか、

    「◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯!」

    とか(憶えてないけど)、世紀末のようなツイートが炸裂していた。

    それを多くの人がリツイートしてしまう……当時はいま以上にリテラシーが高くなかったから……ということが起こってしまってた。

    原宿駅で電車の再開を信じながら、これらのツイートを眺めていた。で、たぶん自分自身もデマツイートをリツイートしたりもしたんだと思う。

    情報を入れれば入れるほど恐怖でしかなかった。

    恐怖の感情ってデマの拡散につながりやすい。このコロナ禍もそうだ。震災を思い出すことで肝に銘じなければならないよね。それは放射能の恐怖を煽ったマスコミにも言える。いま、福島の放射能レベルは非常に低く抑えられていると聞く。その事実を客観的に検証し、場合によっては誤報を謝罪する誠意ある記事を求む。

    歩いた

    日本の鉄道の復旧力を信じて原宿駅で2時間ほど待っていたけど、ツイッターを見る限り、どうやら動き出すのを待つのはムダだな…と思い至る。で、以前クルマで通っていた道を歩いて自宅を目指す。

    そのころすでに夕方の6時から7時だったかな。主要幹線道路には、民族大移動じゃないけど、驚くほど多くの歩行者がいた。

    すでにタクシーとかは話にならない(くらい捕まらない状況)。

    諦めたのか、客を受け入れている飲食店も散見された。環七沿い。

    クルマで通っていた時代の裏道を歩く歩く。途中でセブンイレブンが開いていた。入ってみたら、食料はほとんど売りつくされていた。それでも、非常用の水が置かれ、なにか飲むものを買えた気がする。コンビニ偉い。

    一息つきつつ歩いていると、なんと、たまたま行き先表示に最寄り駅が表示されたバスが走って…いや、のろのろ動いていた。これは!と思って追っかけてバス停にたどり着き、ラッキーにも乗り込めた。通常より3倍くらい時間はかかりつつも、あと一歩のところまでどりついた。いや、これはほんとに幸運だったと思う。

    絶句

    たどり着いたJRの駅は、シャッターが下ろされ電気も消え、(見たことないけど)戒厳令のように物々しい雰囲気とタクシーの列。が、そこから自宅にたどり着けるバスが動いていて乗ることができた。奇跡? 急に日常に戻れた気分だったのを思い出す。

    「はー!なんとかかんとか」

    と、そこそこの距離を歩いてたどり着いた開放感に安堵しつつ、原宿から4時間くらいかかったが、なんとか帰宅。幸運なことに「本が落ちてきただけ」で被害はほぼなかったという。そこで、ようやく落ち着き、テレビから映し出される映像を初めて見た。表情が固まった。絶句した。

    ありえない光景の連続だった。

    あんなのは、あっちゃいけない光景だ。

    落ち着いた、と感じた自分を、本気で責めた。

    力はないが力になりたい

    映像の衝撃があまりにも強すぎて、ようやくいまいる自分の環境が恵まれていることを悟った。とすると、自分になにができるか?を考えた。うちは夫婦ともに東北にルーツがあるからなおさらだった。ちょうど引っ越しの準備中だったこともあり、ネットで検索したら、寒さしのぎの衣服などを受け入れてくれる団体が見つかったので、引っ越し用のダンボールで送った。じつは受け入れは現場が混乱するから今は難しい…という情報が主流だったから、いまにして思えば、あのサイトの情報は正しかったのか?というのが澱のように残っている。

    それもあって、後日、図書館の本が全部流されたというニュースを知り、子どもに買い与えた(すでに卒業してた)絵本を一切合切送った。なんか、自分の経済力が弱いことを恥じる気持ちの反動で、とにかく、できることでなんかしなきゃ…という思いはやけに強かったな。

    そして、お金はないけど、こういうことはできるぞ、ってことで、クリエイターに呼びかけられていた「ソーシャルボランティア」的なものにポスターのデータを送って参加した。どこかのお店とかが採用してくれたかもしれないし、してくれなかったのかもしれない。でも、ちゃんと思いを込めてつくったつもりなので、ここに奉じておきます。ちょっと加工したい箇所もあるんだけど、アップした意図を濁らせたくないので、そのまま上げます。いちばん最後のはお店用です。

    石巻へ

    それから2年後だったか。行きたかったけど財布の都合がつかず、しかし取材で仙台へ行く用事ができた。仕事は午後の比較的早い時間に終わったため、石巻まで足を伸ばすことにした。震災当時、知人が関わっていたこともあり、『石ノ森萬画館』がどういう状況だったのか聞いていたので、訪れてみたかった。

    ちなみに(何度か書いてるけど)石ノ森章太郎先生は翔ちゃんと同じ1月25日が誕生日だ。

    https://www.mangattan.jp/manga/

    そのときのことは、こちらの本で細野不二彦さんがマンガにしている。

    もう、本当に「必死」の数日間だったと聞く。

    入口近くののガラスに、津波の最高到達点が示されていた。

    地震と津波発生の報を聞いたとき、川の中州という立地もあり、正直、最悪のケースが頭に浮かんだ。でも、その形状が不幸中の幸いで、なんとか残った。

    それでもやはり1階部分は大きな被害があって正面はベニア板で覆われた。

    こんなCMがあった。

    このベニア板はいまも大切に保管されていると聞く。

    街があったあたりを歩いてみた。家々の土台を雑草が覆っていた。

    そのさらに1年後に、また石巻を当時の仲間たちと訪れた。

    昼過ぎに小腹がすいたので駅前のラーメン屋に入った。「最近ようやく再オープンできたんですよ」と店主がいう。「前の店主が津波で流されて亡くなっちゃって閉めてたんですよ」。返答に詰まった。

    10年経ったけど

    どうなんだろうな。10年前、「もう少し自分がちゃんと生活できるようになったら何か力になりたい」と思っていたけど、これまで正直なんにもできていないなぁ、と思う。

    でも、もしかしたら、それが「思いを残せてる」ということかもしれないなぁ、とも思う。

    福島の産品、積極的に買いますよ。ええ。TOKIOもリスペクトしてますから。その意味で、寄付の額は小さいけど、消費者としては自覚的であるとは思う。

    翔ちゃんが、『Newsweek日本版』に寄稿していた。嵐/news zeroキャスター の肩書で。

    ネタバレを避けつつ書こうと思うけど、10年に渡る震災の取材で、この肩書に寄せる思いは少なからずあるのだろうな、と感じた。

    翔ちゃんだから聞けること。翔ちゃんだから伝えられること。それは絶対にあるんだよな。

    そんな翔ちゃんがキャスターとして伝えていきたいのが「戦争と震災」というのも、めちゃくちゃシンパシーを感じるんです。ジジイのテーマとも重なってるので。

    テレビでキラキラしているアイドルだから伝えられるもの、ってのは、たしかに絶対にあるんだよ。それに翔ちゃんはめちゃくちゃ自覚的で、覚悟を持ってるんだ。

    で。伝えるべき「その日」以外は、アイドルとして、タレントとして、娯楽をみんなに届ける。ときにちゃんとピエロになることも自覚的だ。

    だから、オレは、圧倒的に翔ちゃんを応援し続ける。