セルフカバーの例ってある?
これは前から思っていたんじゃが、嵐は自分たちで表明しているように
我々はシンガー・ソングライター集団ではありません。
この20年間、数え切れないほどの作家の皆さまに提供いただいた
素敵な楽曲たちのおかげです。
ということで、じつに数多くのアーティストから楽曲提供されておる。
その中には、誰もが知る超有名アーティストの名前も散見される。
けれど、どーしてなのか、ジジイが知らないだけなのか、提供アーティストがセルフカバーをリリースしたという話は聞かない。
アーティストにとってみりゃ、アイドルで売って、その波及効果もあるので、セルフカバーを出したくなるんじゃないか?と思うんじゃが、そうならない。
これがずっと謎じゃった。
ほんとにジジイが無知なだけかもしれんが、アイドル→提供アーティストのセルフカバーの二毛作を、薄い芸能音楽知識でも何例かは知っておるので、嵐でそれを聞かないのが意外だったんじゃが…。
見事に“嵐の曲”にしてしまう
たとえば、直近で言えば、ゆずが提供した『夏疾風』がわかりやすいかな。
へぇ、今度はゆずなんだ〜と楽しみにしてた。
で、フタを開けてみたら、嵐の曲じゃった。
もちろん、いわゆる(いわゆらないか?)“ゆず感”はしっかりある。
しっかりあるんじゃけど、なんか、これはやっぱり嵐の曲になってしまったんじゃないか。
ゆずをディスるつもりは毛頭ないので誤解しないでほしいが、北川氏もセルフカバーに手出しできなくなったんじゃないか?とすら感じる、“嵐の楽曲”としての完成度の高さに仕上がっておる。
ジジイは個人的に相葉ちゃんの
♪願いを乗せて〜
の部分が好きじゃなー。
なんか青春のひと夏の切なさ…過ぎ去ったあとで思い出す柑橘系の苦味も少し感じる爽やかさが出てる気がしてキュンとくるんじゃ。
ほんとごめん。ジジイは、
アイドルなのにこんなに曲も素晴らしくてヨイのか?
と、結局そのことにずっと戸惑ってるんじゃな…。
それは嵐の5人じゃなきゃ出せなかったと思う。
5人のバランスがいいからこそ
と相葉ちゃんの歌声を脳内再生してると、どんなアーティストに提供された楽曲であろうと嵐のものになってしまうのは、結局はそれぞれ歌い手としてのチカラがあって、一人ひとり個性的な声質で、だけどユニゾンではぴったりハマるし、なにより音楽理解力が高い…といった彼らならではの特質に思い至る。
セルフカバーの典型といえば、たとえば…たとえが昭和で申し訳ないが、桑田佳祐が研ナオコに提供した『夏をあきらめて』なんか好例かな。
これ、どっちもイイんですけどね。
1to1、女性と男性。
だからこそ別アレンジみたいな感覚?うまいたとえが思いつかんが、弾き語り対決ギターVSピアノみたいな感じでセルフカバーにできたんじゃないかなー?とシロートがエラソーに言ってみる。
でも、嵐は5人5色、オーケストラのようにさまざまな声の楽器を奏でることで、「嵐だけのもの」にしてしまう。
その声としてのキャラの強さに均衡が取れているのも重要じゃろうね。サトぴょんがメインボーカルではあるけれど、ほかのメンバーもそれぞれのパートで楽曲世界をさらに広げるよう自己主張する。それが調和である。嵐ならではのハーモニーである。替えが効かない。
そして調和のグループだからこそ、サトぴょんが疲れたら、みんなでちょっと休みにしようと決めたんじゃろうな。
なんか、今回のブログは、この夏こそ海に行きたかったのに海に行けなかったおセンチがいつのまにか出てもうたかなー。